ちょっとこちらを見直したいとおもいます
素でいられることはより親密な信頼関係を示すのか
まず わたしは「それマジか」と言いたい
ざっと理由が3つあります
- そもそも素を知ってほしいとおもっていない
- わたし自身も自分の素がよく分からないのに分かったようなこと言われると混乱する
- それより意識的に作っている部分を認めてくれるほうが努力の成果も分かり嬉しい
ここまで書いて
間違ってない
間違ってはないけど わたしの人間関係ヤバくね?と思いましたのでもうちょっと考えてみます
素を知られたくないとは
素を知られること すなわち 弱みを握られること
弱みを握られていると考えると心休まりません
努力して取り繕ったわたしを信じてくれているほうが心穏やかでいられませんか
わたしはここからはできません
ここがわたしの限界です
と 見せる素は選択していたい
そうしてみると素という言葉が良くない
素という言葉には 自身のことを知ってもらうのに程度というわきまえがないような気がする
洗いざらい生まれたままの姿という感じがする
自分の素がよく分からない
というか素なんて玉虫色じゃん
気分や天気や相手や靴擦れの有無とか空腹の具合とか
簡単にかわってしまって 自分でもなにが素なのか分からない
それを分かったふうに言われるのはすごく不快だ
わたしだって分からないのに
でも分かったとして進めないとコミュニケーションにならない
きみの言いたいのはこういうことでしょ?
きみってこういう人だよね?
その分かったふうな口ぶりに個人の差はあるだろうけど
もしかすると他人の言葉で混乱するのも必要なことなのかもしれない
バレてしまうのは仕方ない
そのぶんバレてしまった素に関しては抵抗しない
やれやれ困ったな
と認める
内心ほっとしないでもないし
え 何にほっとしちゃうんだろう
それが一種の核だと感じるからなんじゃないか
素というより核
自分はこういう人物なんだと拠り所にできることにほっとするんじゃないだろうか
素は玉虫色だと感じているからこそ他人の言葉を頼りにしたくなるんだ
じぶんを取り繕う努力を認められることとは違う種類の歓びだとおもう
それを繰り返していくことは信頼関係を親密にしていくひとつの方法だとおもう
悔しいけど今回はそう思う
相手に素を教えてもらうことは信頼関係を親密にする
なるほど
でもわたしは作っている部分を認められるのも嬉しいけどね!