"本性"とか、そんなものは本当はないんじゃないか。
話や占いのネタにしやすくするため、分かりやすいようおもしろおかしく仮定されているだけじゃないだろうか。
自分が自分でも信じられないほど非情のときもあれば、慈悲の心に満ち満ちているとき(酩酊時だけど)もある。
そのときはそれが当然かどうかすら、なにも意識せず選択している気がする。
過ぎてから自分自身の振れ幅に面食らう。
そういうもんじゃないだろうか。
人のある一面をピックアップして"本性"と言い表すのは、便利に手短にすませているのだと思う。
すべての人の"本性"を仮定せず付きあうのは、骨が折れるし不可能なので。
その振れ幅まるごとで、その人だと受けいれたいと思う。
どうしたって振れ幅があるけど、まるごと私だと受けいれてほしいと思う。
互いにそれを許しあえる関係が特別ということで。
だから不確かな"本性"に苦しむほど拘らないし、必要なときは便利につかっていく。
それでいきます。