2013/10/13

問題提起手法としてみるちはるさん(ちはるの森)と動物愛護を掲げるひとたち

はじめに

断っておくとわたしはちはるさん派になる
DESIGNEAST04で実際にお話をきいて この人の言うことは共感できるとおもった
全面的にではないにしても
現時点においては




ちはるの森」というブログについて簡単に説明すると

肉を食べることが日常なのにその肉ができるまでが日常と離されすぎている
ということを疑問におもった畠山千春さんという方が書いているブログ
実際にじぶんで動物を殺してさばいている過程や日々をつづっている

肉を野菜に置きかえるとスローライフの流れのひとつとして理解できるかもしれない


ちはるさんのブログへのコメントが炎上している というまとめがあがった
twitterでもちはるさんへのリプライもあまりにひどいものも散見される

正直にいうとそれらにリプライをかえすちはるさんもちょっとなぁ…とはおもう
どうやっても理解してくれない人も世の中にはいる
最初から他人のことを「悪」だの「精神病院にいったほうがいい」などと言う人はいわずもがな


屠殺や肉を食べることの是非については 今回は保留したい
わたしのなかでまだ未決定事項である



問題提起の手法

ただわたしは「屠殺」という問題を提起しようとおもったときの手法として
断然ちはるさんのやり方のほうが好ましいとおもう

わたしにとってちはるさんも動物愛護を掲げてなんらかの活動をされているほかの方も同じだ
どちらも屠殺という問題をたくさんの人に知ってかわってほしいとおもっているという意味で同じだ


動物愛護を掲げてそのためにベジタリアンになって屠殺という問題を訴えるというのが賢い方法だとはおもえない
問題という汚れから逃れじぶんだけ潔白であろうとするような独りよがりな姿には何も心をうたれない
じぶんひとりで生きているかのような身勝手さが痛いだけだ
その安全地帯から問題を糾弾する姿勢でたくさんの無関心の人をかえうるだろうか



問題提起の手法 - ちはるさんの場合

ちはるさんはたぶん
そもそも屠殺がなぜ必要なのか
そもそも屠殺のなにが問題なのか
という問いをたててから活動しているようにおもう

そのためには屠殺として動物を殺すことを自らが経験する必要がある
ちはるさんにとっては自然な流れだったのではないだろうか
ちなみに自然な流れであることとラクな流れであることはまったく意味が異なる


人類全員が肉を食べなくなる日はおそらくこないだろう
(あるいは肉はおいしいのでやっぱり食べたい!場合)
それならばどうすればいいか

現実に即して問題にアプローチする姿は近寄りたくなる興味を引かれる魅力がある

問題提起の手法としてずっと賢い

問題提起にあたってネガティブな言動を繰りかえすことは人を遠ざけてしまう


げんにわたし自身も既存の動物愛護団体の活動では無関心のままだった屠殺にちはるさんの活動を知ってやっと関心をもつようになったのだから



正しいことにしばられない

ちはるさんのやっていることやその表現方法がすべて正しいとは言わない
だが「正しいこと」なんて本当に遂行可能だろうか
わたしはそれは実在しない幻だとおもう

正しいことにしばられて「正しいか証明できないからなにもできない」より
手探りで正しいことのかたちを掴もうとしている姿こそが問題提起の手法としてあるべきなのではないか


同じ問題に対峙しているからといってその人たちがみんな手に手をとりあって活動できるとはおもっていない
せめて無関心の人たちからどのように見えているのかという視点をもって
活動できる方が増えると問題解決にむけて前進できるのではないかとおもった