じっさいに、労働者は日々を本当に誠実に暮らすためのひまもなく、他人に対していちばん人間らしい関係を保つ余裕もない。
とはいえ、自分が自分を奴隷として働かせていること、これこそが最悪なことなのだ。
その人のなかに尊厳などというものが見られるだろうか?
どんなに古くからあるものでも、証明もなしに信じられるような考え方とかやり方など、ひとつもありはしない。
食料は、ぼくらの体内の火を保つ燃料と考えることができるからだ。
住居と衣服も同じように、そうして発生し吸収される《熱》を保つ役割しかない。
ほとんどのぜいたくや、いわゆる人生の慰めと言われるものの多くは、人類の向上にとってどうしても必要というわけではない。
生活に必要なものを手に入れたら、人間には、余分な物を手に入れること以外にも取るべき道があるのだから。
それは、地味な苦労から得た余暇で人生の冒険をすることだ。
すべての人に欠けているのは、仕事をするための何かではなく、すべきこと、あるいはむしろあるべき姿なのだ。
人間から切り離された衣装は、みじめかグロテスクかのどちらかだ。
人間はそれほど大柄で頑丈にできているわけではないから、自分の世界をせばめ、自分にちょうどぴったりするように壁で空間を仕切ろうとするのだ。
というのもぼくらの家はじつにやっかいなしろもので、そこに住むというよりも囚われているという方がぴったりくる。
人間が破壊した所でなければ、草にほこりなどつもらないのだから。
今ぼくの目にとまる建築の美しさは、唯一の建築者である住人の必要性と性格にしたがって内側から外側へとすこしずつ育ってきたものだ。
太陽と月以外に家のなかをのぞきこむ者もなかったし、それならばのぞかれることは大歓迎だったからだ。
商売というのはそれが扱うすべての物をのろうものだということを知ったのだった。
ほんの少しある真の協力も、人には聞こえてこないハーモニーであって無いに等しい。
義務感からいろいろと自分を犠牲にしたことはあるのだけれど、そのひとつとして博愛の楽しみをあきらめたのだった。
堕落した善からたちのぼる臭いほどいやなものはない。