2012/12/27

ホキ美術館にいってきました

どうも "サイクルオペレーション" rintaroです

口座にいれた給料が流れる水のように引落し(クレカ)されています
干上がる資金
溢れるスリル



そんな資金不足のなか、千葉へ行ってきました。

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建築系の方々から特別に評判のいいホキ美術館 とても楽しみでした
土気(とけ)駅から歩いて15分くらいだったかな 2キロはない


道中の寒さもさることながら 入館料1,500円も震えた



ギャラリー1

あのよく写真でみるキャンティになっている部分がギャラリー1

踏みこんで右をみるとずらっと絵画
とても長い廊下のような空間で 左右の壁にひたすら絵がかかっている

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右の壁は下半分ほどがガラスになっていて廊下に日射しと木の影がおちていた
絵の鑑賞をしようとおもうと邪魔にはならない
公式サイトで宣言している ※1
昭和の森に隣接した敷地という、自然の一部となれる場所を選び、自然光を展示空間へと導き入れることで森の中を散策しながら絵画を鑑賞しているような状態を作りました。
というのはとても快適なかたちで実現されているとおもった
日射しが暖かく季節を忘れるほど穏やかで集中できる


奥に進むとだんだん廊下が狭まっていて 絵画と距離がつまる
強制的に絵に放り込まれるようだった



それで思いだした「実空間での展示の底力=細部と全体のシームレスさ」

とにかく絵をみるときは 近づいてディティールをみては質感や色をなしている筆致を確かめたり
離れてモチーフや構図の意味を考えたりすることの繰りかえしである

シームレスにディティールと全体を交互に鑑賞できるのは実空間がいまのところ断然良い ※2
実際の空間でみる意味や価値を実感できる空間だった



写実主義の絵について

はっきり言うと「写真でいいじゃん」と思っていて そんなに好きなジャンルではない

なぜ絵で描くのか
それをすこし考えながらみた

基本的には どうやってこんな絵を描くんだ?! 人の技か?! の連続

その中でも山間で光る霧が描かれている絵があって
あ この人はわたしと全く違う密度で霧をみているのだろうな とおもった

ぼんやりと「わー霧が光ってキレー」などと言っていては 何年霧を見つめても光る霧をキャンバスに再現するのは無理
対象が霧やアウトプットが絵画じゃなくても構わないが 密度の違う眼差しを持つというのは第一歩だろうなと



企画展「写実の可能性と大いなる挑戦」

谷川俊太郎を描いた野田弘志氏の作品に寄せられた谷川俊太郎本人のコメントがかっこよかった
驚嘆すべき技術によって再現されているがその達成を促した情熱は理性に属していない。
絵をみると谷川俊太郎の言いたいことがすごくよく分かる
(そういえば絵の谷川氏が着ているTシャツは21世紀美術館の図面柄だとおもったのだけどどうだろう)

五味文彦の樹木の絵がとてもよかった!

松田一聡の緻密な線もほれぼれしました



と、まあ絵も楽しんでいた頃。

階段を下り吹き抜けになっているギャラリー6を見終えて振りかえったところ
次の真っ暗なギャラリーが蹴込みが透かしになっている階段から細切れに見える…のがぞくぞくしました

真っ暗になっているギャラリー8に移動すると明るいギャラリー6がまた見えてはっとするくらいよかった ※3

建築自体が 絵を鑑賞するときは白いプレーンな空間として存在するのに対し
空間体験としては多様で飽きない

全体の明暗差や解放感の変化 細部を見ても手摺りはにゅるっとクセがある

とてもたのしかった

写実主義の絵の横でヘタなスケッチをするのは苦行でしたほんと…

また時間のあるときに行きたい



※1 ホキ美術館について より
※2 写真展「日本の美しい景観」展 の大山顕の言葉より
※3 サイトに写真 がありました



2012/11/11

青木野枝さんと青木淳さんのレクチャーへいってきました


どうも "昨日ホルモンから帰ってきたらドーナツぽい甘い匂いがすると母に言われた" rintaroです

わたしは何をたべていたのでしょう…

11月9日の「原っぱと鉄の浮遊する粒子」というタイトルの
青木野枝さんと青木淳さんのレクチャーへいってきたのでその感想文です



感想。のまえに

ツイートしてしまったのだけど

以上が わたしの感想です

で 建築系後輩やツイッターでみかけた建築系学生さんの感想をあわせてみると
野枝さんの話し方は分かりにくくて淳さんは分かりやすくてすげえ!!だったみたい

なんつーか…
もったいなくね??っておもって

おまえらこれからも分かりやすい話ばっか「いいね!」していくつもりかよと
そうじゃねぇだろと

レクチャーで分からないことやもやもやしたことが残ってもいいとおもうんですよ

むしろ分からないことを共有できる機会ってなかなかなくないか??
もやもやしてるから共有するのがむずかしいんだよ
そういうのは本とかネット越しになっていたらできない
わざわざ顔あわせてミーティングしたりするのはそういう部分も共有する必要があるからやってんだろ??

だからこそわたしは野枝さんの内容はナマで会ってこそだったと言おう





ふたりが似ているなとおもったこと

さてやっと講演会の内容について
まずふたりに共通しているとおもったところ

野枝さんの話は実際の彫刻やドローイングと照合しながら聞くと一貫していて
わかりにくいところはなかったともいえる
ここからは分からないとしている/じぶんの手から離す という線があることを話してくれていた

ここが淳さんと似ているっぽいとかんじたところで
淳さんも じぶんの手から離す という手法を用いている
淳さんの場合は「デザインしていないようなデザイン」を実現するためにだったけど…


野枝さんが青森県立美術館を「振りむいたときに大丈夫」な空間だったと表現したのはそこに起因するのではないか
淳さんが極力建築家の恣意性を排除した結果
人がつくったモノだという嫌味を感じさせなかったからではないだろうか



建築とアートのコラボによる実作と手法

実際にふたりによるコラボというか実作( Maison AoAo )が紹介されたのだけども
その実作自体よりこういう手法や何を良しとするか判断基準に関係性がうまれていることのほうがおもしろい



技術で自由を獲る

野枝さんが鉄の彫刻は誰でもできることで工芸品らしさがないところがすきだと話していて
子供を対象としたワークショップをするらしい

個人的な偏見でわるいけどわたしは「子供向けワークショップ」アレルギー
「子供の自由な発想うんぬん」などと言われているとおもうと
むっしょーにぞっとする
ので わりと渋い顔をして話を聞いていたとおもう

が 野枝さんがなにを考えてワークショップをされているかというと
技術で自由を獲ることができるから技術を教えたい(意訳)
だったので興味をひかれた


この自由を獲るというのは

(想像なのですが… たとえば…)
子供が家に帰ってみても親がいないひとりの時間
やっぱさみしくなってきちゃう
そこで 絵が描けたら
さみしい世界からすこし自由になれるんじゃないかって


そういう話だったのかなぁ…


ここのところをもうすこし聞いてみればよかったというのが後悔で
あいちトリエンナーレのプレイベントとして非常によい内容だったとおもいます
企画に携わってくださっている方に感謝



2012/11/02

藤村龍至さんの講演会にいってきました

去る、10月31日。

名古屋で藤村先生が藤村先生の話をされる機会があるとのことで

わたしみたいな造園外構業者のオバサンが
未来ある建築系学生から席を奪うことに葛藤しましたが
ええい!席取りゲームで負けるようなヤツは知らん!ということで


藤村先生の「予習は不要」というツイートに励まされ行ってきました
そのとおりにとてもコンパクトに そのぶん非常に濃くまとまっていました

おかげで書ききれないほどのメモがあるのですが
書きたくて仕方がなくなった3点だけまとめます



1. (印象だけど)メタファを使うのが巧み

説明や講演会の中でもメタファ(比喩)的表現のことではないです

プロジェクト内での企画や役割を
他のスケールでの出来事や役職に例え
実験を行い結果を得ているような印象でした


当然メタファで分かりやすさや他者への伝わりやすさが向上していること
さらに自分のすでにもっている能力や技術を異なる分野でいかしたり
逆にじぶんのフィールドに引き込んだりすることに役立っているように感じました


初代ドイツ皇帝のオットー・フォン・ビスマルクの言葉に
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」※1

というのがありますが
歴史に学ぶ人というのはよりメタファを使いこなす人のことであるのかなぁと…



2. 設計は他者との意思決定の繰り返し

この講演会でわたしがいちばんすきだった言葉です
そう ほんとに そのために図面や模型や言葉を存在させなければなりません…

おもえばどんなビジネスも繰り返しの回数こそ違えど
他者との意思決定の繰り返しですね


わたしの仕事(造園と外構の設計施工)はまずまず回数が多い気がしますが
建築の比ではありません

設計の能力とはほんとうに複合的な能力ですね


コミュニケーションに拘る(増やしたり質を向上させてりする)ことが
よい建築をつくる一番の方法なのか

質問させていただきましたがこのことから考えてみれば
自明だったのかもしれません



3. コミュニケーション/コミュニティと設計

告白すると わたしががっつり読んでいる藤村先生の本は

コミュニケーションのアーキテクチャを設計する―藤村龍至×山崎亮対談集 (建築文化シナジー)コミュニケーションのアーキテクチャを設計する―藤村龍至×山崎亮対談集 (建築文化シナジー)
(2012/07)
藤村 龍至、山崎 亮 他

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のみでして…
わたしの中で藤村先生はコミュニティのイメージが強かった

なので話がこのあたりに差しかかったときは
耳が熱くなるほど拝聴に力がはいってしまいました


それで全体を考えなおしてみると藤村先生は一貫して
よりコミュニケーションのとりやすい方法
よりコミュニティがつくりやすい方法
を選択しているとおもいました


超線形設計プロセスも
インプットされた条件がどんなふうに統合されたのか
他者にも分かりやすくなる設計手法
と言えます※2

会場で出た「環境や緑化についてどのようにお考えですか」(意訳)という質問に対しても
「環境は問題として広げにくいので財政から切り込みたい」(意訳)
といったように答えていらっしゃいました
問題として共有することでコミュニティがつくりやすいということでしょう


最近じぶんがなにか企画をやるときは
同時にそれを実行するコミュニティ自体をつくっていることを意識することが多く
より良いコミュニティをどうつくっていくのか
すこしヒントを得たような気がします

最近わたしが設計しているのはそういうことかもしれません



※1 つい最近サイコパスで知りましたすみません…
※2 藤村先生は超線形設計プロセスのメリットとしてちがう3点をあげられていますのでわたしの考える勝手なメリットです



2012/10/09

おおかみこどもを思い出すとき




この指摘おもしろいなとおもいました


わたしはあまりそういうグッズを所有したいとは思ったことがないのですが

  • ファンだってことを(こっそり)アピールしたいとき
  • その世界に浸りたいとき

のためにだったら買いますね


その世界に浸りたいとき」のキーになるのが公式グッズではなくて
道端で摘んできた季節感のある野花であるとか
家でつくる焼き鳥であるとか
そういうものであったらいいのではないかなと個人的にはおもいます


というか すごくかっこいいよね
日常のなかにもう作品の断片がまぎれこんでしまうなんて!!



2012/02/17

茶室のべんきょうをはじめました


どうも "ひさしぶりに図書館にいったらカードなくしてました" rintaroです

わたしはわりと屋外で食事をするというのがすきなのですが
年末くらいに 一度 野点(のだて)というのをやってみたいなと ふと思いつきました

野点というのは要は茶室を飛び出した茶事です


わたしの親しい友人を呼んで
親しい友人がわたしの知らない親しい友人を呼んで
そういう空気のなかでほっこりとお茶をしたら楽しいのではないかなぼんやりと思いました

とにかく 茶室を離れた茶事に必要な空間をつくるというだけでわくわくしてしまって
まずは一体どんなことに留意すれば「お茶のための空間」というものがつくれるのか勉強をすることにしました



といっても本を数冊読んだだけです

何を読めばいいのかわからなかったので図書館で適当に検索して 片っ端から目を通しています

庭園の美と鑑賞法
茶室と茶庭 見方・作り方
日本の庭ことはじめ
ここから学ぶ茶室と露地
近代の茶室と数寄屋
すぐわかる茶室の見かた
"しくみ"で解く茶室

あと住宅建築の2月号にちょうど茶室の特集があったのでそれも読みました


中でも一番影響をうけているのは「"しくみ"で解く茶室」です
本一冊一冊に関する細かいメモや気づきは別で管理しているので
「茶室ってそういうふうにできているんだなー」といった全体で感じたことを書きたいとおもいます

そのために一番素朴な疑問に戻るわけですが…



何のために茶室をつくるのか??

もちろん茶事のため

では茶事はなんのためにやるのか??
亭主が客をもてなすこと それが一番の狙い


本を何冊か読むうちに
ほんとにシンプルに考えればどんな茶室も客をもてなすことを念頭においてつくられていると感じました
ただ どう「もてなす」のか
もてなしの解釈やその空間での「ご馳走」が異なるのであれだけ様々な茶室があるのだとおもいます

ご馳走というのは例えば床間の奉書であったり茶具であったり景色であったりそのまま懐石であったり 茶室内でのいろんな形での美やもてなしのことです



素材に隠された構成

で いかにもてなしの心をこめて空間をつくればよいのか
そこですよね

茶室といえば 侘た素材ばかりイメージしてしまい
土の壁や竹の組まれた窓に漠然とした「茶っぽさ」を感じさせられるので
わたしは素材やその仕上げにばかり気を取られていました


で 本を何冊か読んでやっと気がついたのですが
素材じゃなくて構成こそが問題なのだ

茶庭 露地 茶室
茶室へ至るまではもちろん
躙口から茶室内をのぞいたときの明暗差
そこで感じる距離感
床間から炉へ茶道口へと視線を誘導する配置
それを演出する窓の位置や窓の狙い
そして座についてからの客の視界に入るものの演出
その客自身を演出する構成

具体例があったほうがわかりやすいのですが それはぜひ「"しくみ"で解く茶室」を読まれてください74-85ページ辺です
解説を読むうちにあまりに無駄のない構成に溜息がでる勢いです
所作を丹念に考えて空間がつくられているんですね


すべての構成に亭主の意図がこめられているんです
むしろ素材はその構成を謙虚にも隠すために使われていたのではないかとおもうほどです

(実際隠してるんじゃないでしょうか…)
(茶事を介して客側も美意識や見識を試されているところがありますから)



あー!! なぜ建築を計画したときや庭の設計をしているときと同様に考えなかったんだろう…
構成が大事なんて当然のことだったのに…!!



謙虚といえば

侘について目鱗な指摘があったので
侘って粗野な素材や仕上げのことじゃなくて 客への亭主の謙譲心こそが侘らしいです


例えば
又隠という茶室は壁の仕上げに2種類の紙が使われています
それぞれの質の違いから「ハレ」(上質なほう)と「ケ」(普段使い)に分けられるそうです

客は常に「ハレ」の壁が視野に入るようになっています
退席時に振り返り初めて客は亭主がずっと「ケ」の壁と対面していたことに気づきます
この対比に亭主と客の格差が表現されていること そこに亭主の謙譲心を知ることになります
客ごと粗野の世界におくのは侘ではないそうです



問題は

今回の野点において何を「もてなし」とするのか
そこでのふさわしい「もてなし」とはなにか
場所の選定と同時に進めなければならないということです

すんごいたのしいね
最初からうまくいくとはおもっていないけど もう正直わたしの中で茶室のイメージがだいぶかわってこれだけでもやってみてよかったなーとはやくも感じているのです
あとはこれをちょっとでも共有してもらえておもしろがってくれる人とたのしく野点本番を迎えたいものだなとおもいます