twitterでのあらすじ
"死ぬほど"という表現で褒めるひとがいつ死ぬのか見ているけどなかなか死なない
— ('ω'o[ヤマダ]o (@rintaro113) 2016年2月28日
どうも、rintaroです。
じつは"死ぬほど"という表現がきらいです。
死ぬほどスゴい、死ぬほどウマい、死ぬほどイイ。
こういうふうに命を軽々しく扱うのが不愉快だ、とかいうのでは全然ない。
むしろ、えっ、きみの生死?それどんだけのもんなの?と言いたくなるよ、わたしは。
なぜか。
たしか美輪明宏の言葉だったと思うのですが(出典が見つけられず)、曰く
程度の表現に命を差し出してしまうのは、ほかに比するものがない表現や経験の乏しさによるものだ、とか。
自らの貧しさに無自覚であることの惨めさといったら、ない。
そういう惨めさに鈍感な場面を見るのがただ不愉快。
語られない様々な"死"
そう、言いきってから思ったのだけど、"死ぬほど"と言う人にはたしてどんな死があるのか。例えばすばらしいパフォーマンスに出会い呼吸を忘れ酸欠の視界に瞬く星へ震える手を伸ばしながらの"死"や、かつて遭遇したことのない経験が今までの人生つまり自分を無に帰したがため語られた"死"、ということもあるのではないか。
わたしが貧しいと断じた"死ぬほど"にも、かくも様々な豊かな"死"が存在していた可能性がある。あるはず!
そっか、ごめんな、貧しいだの惨めだのよく考えもせず言って!
願わくば、"死ぬほど"豊かな死がありますように。